高校、大学の七年間、祖父母が営む商店街のお菓子屋で過ごしました。
自分を作ってくれたものって何だったかなぁって思うと、
いつもこの時代の事を思い出します。今、私54才。
祖父も祖母も、本当に真面目で厳しい人でした。静かに暮らす老夫婦の元で、急に暮らすことになった孫との同居は、過ぎてしまえば笑い話ですが、大人になった今考えると、大変な爆弾を預かった祖父母に同情します。
大正四年生まれの祖父、大正8年生まれの祖母、私たちの年の差は52才。
68才の祖父 16歳の女子高生の私
「おじいちゃん、バス間違えたん。どこにいるかわからへん」
と電話する私。
「よっしゃ待っとき。迎えに行ったるさかい。ほんで、周りに何が見える」
今ではわかる、百万遍界隈。
でも当時は、行動範囲が急に広がって戸惑ってた頃。
「吉田神社って書いてあってな、きたない服着た人がたくさん走ったはる」
祖父は店の看板車で迎えに来てくれた。
「きたないかっこで、走ったはるんは京大生やで。かしこいねんで」
そういえば、来たことあるところ。若い時って、何かと慌ててしまう。
おじいちゃん、あほでごめんなさい。同志社のせんせに、近所づきあいで大学に入れてもらおうとしていた頃。
ある日は、お店に遠くから来てくださったお客さんを叡電まで荷物を持って送りに。
おばあさんのお客さんと祖父、私の三人で出町の駅に向かう。
改札を入り、叡電のとこまで来ると、
電車が出るというアナウンス。
祖父が言う
「ちょっと待っとくんなはれ。今乗りますさかいに」
遠いところから来て下さったお客様を電車に乗せ、
荷物を渡す。
帰り際、祖父に、「言うたら、待ってくれはるん?」と私。
「待ってくれはったなぁ」と祖父。
今どうなのかは知らないけれど、待ってくれる電車というのは、当時でも珍しかったと思う。
73才の祖父と70才の祖母 21歳の女子大生の私
大学の友達のともだちの男の子が、京都で近所だということで、大学のある奈良から京都まで車で送ってもらうことに。
バブルはじける前の華やかかりしころ、大学生で外車という人も少数ではあれ、周りに居た時代。
寺町で降ろしてもらい、
商店街を、ぽたぽた歩いて帰ると、
お菓子屋の家の前には、
お漬物屋のおばちゃん、、
時計屋のおっちゃんが、集まる風に待ち構える。
パートのおばちゃんから聞かれる。
「かなちゃん、ポルシェ乗って帰ってきたん?」と。
「何がぁ」という風に、
「ただいまぁ。うん、送ってもろたん。どないしたん?」
向こうに見える、
鬼の形相の祖父母に、ひぃとする。
あとから想像するに、
どういう伝言ゲームで伝わったのか、
たかだか100メータほどの商店街を
のらくら歩く孫を越え、
お菓子屋に伝わった、孫の大学からの帰宅方法。
いまだ不明の誰かが
「いやっ紀文堂さんとこのお孫さん、ポルシェから降りてきはった」
↓
パートのおばちゃんに、
「ポルシェに乗って帰ってきた孫」の件が伝わる、
↓
パートのおばちゃんから、
祖父母へ。
その夜は、
「いや、おばあちゃん、ほんまに友達の、友達で、家近いし送ってくれはっただけやのん」
「飛ばさへんって言うてくれはったし。
家?家がなにしたはるかしらんし。
友達の友達やし。ほんまに送ってくれはっただけやのん」
その後、私は30過ぎに結婚。
虫を心配した祖父母は、虫のつかぬ孫を憂いだ。
32才
結婚して初の夫との大喧嘩。頭にきて、京都の祖父母の元へ幼い息子とともに帰った日。
伝え歩きをはじめた息子が、おじいちゃんの禿げ頭を、よだれ付きの手でぺちぺちとした。
祖父は、ニコニコと息子を許してくれた。
祖母は、息子のアトピーを心配して、車のベビーシートに器用に手ぬぐいでカバーを作ってくれた。
そして、「帰りなさい」と私を叱った。
書いてて、あー泣けてきた。
今、祖父母のいない商店街には、
「今日も元気でお達者で」の垂れ幕がかかる。
時に煩わしかった、人と人を分離しないつながり。
どちらかというと、人見知りする私だけれど、
その割に、
つながりや、間のことから目が離せずにいる。
じょんじょんに、
違っても、
楽しく暮らせる記憶があったこと。
祖父母と暮らした七年間、
そこで学んだことが、
こんなに長く私を引っ張っている。
違っていても、いーんだと肯定してくれる。